とほほの陶磁器入門
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- 日本各地の陶磁器
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はじめに
愛車ビートルに乗って、陶磁器(焼物)の産地を巡ったりするのが趣味だったりします。焼物の産地を巡って、気に入ったぐい吞みや猪口(ちょこ)をひとつ買って帰るってのをやってます。2025年4月には約1ヶ月ほどかけて、関東・北陸・東北をまわってきました。

陶磁器とは
陶磁器 は 陶器 と 磁器 の総称です。他に、これらより古い 土器 と 炻器(せっき) があります。
土器は、縄文時代から弥生時代に始まったもので、粘土を主成分とし、釉薬をかけずに低い温度(800度程度)で焼いたものです。窯ではなく野焼きで焼かれました。弥生時代以降のものは 土師器(はじき) とも呼ばれます。
炻器は、古墳時代から飛鳥時代に始まったもので、粘土を主成分とし、釉薬をかけずに土器よりは高い温度(1100~1250度程度)で焼いたものです。備前焼, 信楽焼, 常滑焼 などは炻器に分類されます。
陶器は、陶土と呼ばれる色付の土(粘土50%、珪石40%、長石10%程度)を使用し、低めの温度(1200度程度)で焼きます。表面はざらりとしており、吸水性があります。土独特の特徴が残っており「土もの」とも呼ばれます。叩くと「ゴン」という鈍い音がします。
磁器は、磁土と呼ばれる白い石紛(珪石40%、長石30%、粘土30%程度)を使用し、高めの温度(1350度以上)で焼きます。表面はガラス化してつるんとしており、吸水性は低いです。石から作るので「石もの」とも呼ばれます。叩くと「カン」という高い音がします。安土桃山時代以降に始まりました。
地図
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焼物の工程
陶磁器は主には、①土を練る。②成型する。③乾かす。④高台を削る。⑤素焼きする。⑥絵付けする。⑦釉薬をかける。⑧本焼きする。という工程で作られます。
焼物用語
- 素焼き(すやき)
- 粘土や磁土を成型した後、釉薬をかける前に行う、1度目の焼き。
- 本焼き(ほんやき)
- 素焼きした陶磁器に釉薬を塗った後に行う、2度目の焼き。
- 登り窯(のぼりがま)
- 傾斜面を利用して、いくつもの炉が段々に連なった構造を持つ窯。各炉を一定に高温に保ち、大量の陶磁器を生産することができます。
- 皿山(さらやま)
- 陶磁器の産地。九州地方で使用される言葉。
- 高台(こうだい)
- 陶磁器の下部につけられる台。陶磁器を卓上に乗せた時の設置部分。釉薬をかけず素地のままとすることが多い。
- 釉薬(ゆうやく)
- 上薬(うわぐすり)。素焼きを行った陶磁器に釉薬をかけて本焼きすることで、色や文様をつけたり、吸水性を抑えたりすることができます。草木の灰を水で溶いたもの(灰釉)、石灰や長石を粉にして溶いたもの(透明釉)、酸化銅を加えて緑色を出すもの(緑釉)、鉄分を加えて赤色を出すもの(鉄釉)などがあります。備前、常滑、盤古、越前、信楽など、釉薬をかけない焼物もあります。
- 自然釉(しぜんゆう)
- 釉薬をかけずに1300度ほどの高温で焼くことで薪の灰が降りかかり、自然と釉薬の様に付着するもの。
- 呉須(ごす)
- 砥部焼など、陶磁器の絵付けによく使われる顔料の一種です。酸化コバルトを主成分とし、綺麗な青色を描くことができます。
- 白磁(はくじ)
- ケイ素とアルミニウムを主成分とする素地に無色の釉薬をかけた白色の磁器。
- 青磁(せいじ)
- 釉薬や粘土に含まれる酸化第二鉄が酸化第一鉄に変化することによって、青色(薄緑色)に変化したもの。
- 染付(そめつけ)
- 白色の素地に呉須など酸化コバルトを主成分とする絵の具で様々な文様を絵付けしたもの。
- 刷毛目(はけめ)
- 陶器に刷毛(はけ)で白土を塗って刷毛目模様をつける装飾技法。
- 飛び鉋(とびかんな)
- 陶器の表面に鉋(かんな)を用いた連続の削り目をつける装飾技法。小石原焼が小鹿田焼が有名。
- イッチン
- 陶器の表面に化粧土や釉薬を絞り出して盛り上げて線や模様を描く装飾技法。
- 焼締め(やきしめ)
- 正式には締焼き。釉薬をかけずに高温で焼成するもの。備前、信楽、伊賀、丹波立杭焼など。
- 窯変(ようへん)
- 焼物が窯の中で変化すること。「火がわり」とも呼ばれます。釉薬の塗り具合、火の当たり具合、灰のかかり具合、酸素濃度などにより様々に変化します。
- 牡丹餅(ぼたもち)
- 備前焼でよくみられるもので、焼物の上に他の焼物を乗せて焼くことで、乗せた部分が丸く焼き残ったようになります。
- 火襷(ひだすき)
- 備前焼でよくみられるもので、焼物を焼く際に焼物同士が触れ合うのを避けるために藁(わら)を巻いたところ、藁の部分が赤色に変色し、襷のような文様となったもの。現在では、意図的に藁をかぶせて備前焼独特の文様としています。
- 貫入(かんにゅう)
- 焼かれた陶器が冷えていく時に素地と釉薬の収縮度の差異により釉薬に細かなひび割れ模様が出るもの。青磁にみられる貫入の中にさらに貫入がはいる二重貫入も人気があります。
- 天目(てんもく)
- 中国浙江省の天目山一帯で用いられていた茶道用茶碗の様式。漏斗型で高台は小さく、口縁部にくびれがあり、鉄系の釉薬が使用されます。
国宝
国宝に指定されている陶磁器は下記の14点だそうです。「卯花墻」と「曜変天目茶碗」は一度本物を見てみたい・・・。曜変天目は、何年か前に「なんでも鑑定団」で、「4個目の曜変天目が見つかったか!?」なんて、話題になっていましたね。
- 日本で作られたもの
- 中国・朝鮮で作られたもの
日本三大陶磁器
日本六古窯
中世から現在まで生産が続く代表的な窯として「越前焼」、「瀬戸焼」、「常滑焼」、「信楽焼」、「丹波立杭焼」、「備前焼」があげられています。1948年頃に古陶磁研究家の小山冨士夫氏が命名し、2017年春に日本遺産に認定されました。六ヶ所の市町による六古窯日本遺産活用協議会が発足し、Webサイトが開かれています(参照)。
遠州七窯(えんしゅうなながま)
江戸時代の近江小室藩主で茶人としても知られる小堀政一。遠江守(とおとおみのかみ)であったことから「遠州」と呼ばれ、今でも茶道遠州流に引き継がれています。遠州が指導、または遠州の好みに応じた全国7つの窯は「遠州七窯(えんしゅうなながま・えんしゅうしちよう)」と呼ばれ、茶器の中でも一目おかれています。「志戸呂焼」、「膳所焼」、「朝日焼」、「赤膚焼」、「古曽部焼」、「上野焼」、「高取焼」の七つ。ただ、古曽部、赤膚などは遠州没後に開窯されたもので、正確には遠州が直接関わった窯以外に、遠州が好みそうなという観点で、1854年の田内梅軒による「陶器考」などで挙げられたものと思われます。
経済産業大臣指定伝統的工芸品
経済産業大臣指定伝統的工芸品として32の産地、大堀相馬焼、会津本郷焼、笠間焼、益子焼、佐渡無名異焼、九谷焼、越前焼、美濃焼、常滑焼、赤津焼、瀬戸染付焼、四日市萬古焼、伊賀焼、信楽焼、京焼・清水焼、丹波立杭焼、出石焼、石見焼、備前焼、萩焼、大谷焼、砥部焼、小石原焼、上野焼、伊万里焼・有田焼、唐津焼、三川内焼、波佐見焼、小代焼、天草陶磁器、薩摩焼、壺屋焼 が選定されています。
各都道府県伝統的工芸品
各都道府県の伝統的工芸品として、 青森県(津軽焼、八戸焼)、 岩手県(鍛冶町焼、台焼、小久慈焼、藤沢焼)、 宮城県(堤焼、切込焼)、 秋田県(白岩焼)、 山形県(深山和紙成島焼、新庄東山焼、上の畑焼)、 福島県(会津本郷焼、大堀相馬焼、会津慶山焼、田島万古焼、二本松万古焼、相馬駒焼)、 茨城県(笠間焼、つくばね焼、五浦天心焼)、 栃木県(益子焼、小浜焼)、 群馬県(自性寺焼)、 千葉県(真朱焼、大多喜焼)、 神奈川県(ハマ焼)、 新潟県(無名異焼、新津焼、庵地焼)、 石川県(九谷焼、珠洲焼、大樋焼)、 福井県(越前焼、今谷焼)、 岐阜県(美濃焼、養老焼、山田焼、渋草焼、小糸焼)、 静岡県(賤機焼、志戸呂焼、森山焼)、 愛知県(常滑焼、赤津焼、瀬戸染付焼、鶴城焼、犬山焼)、 三重県(四日市萬古焼、伊賀焼、桑名萬古焼、松阪萬古焼、阿漕焼)、 滋賀県(信楽焼、膳所焼、近江下田焼、湖東焼、大津焼、八田焼)、 京都府(京焼・清水焼)、 兵庫県(丹波立杭焼、出石焼、赤穂雲火焼、王地山焼)、 奈良県(赤膚焼)、 鳥取県(牛ノ戸焼、因久山焼、上神焼、黒見焼、福光焼)、 島根県(石見焼、八幡焼、布志名焼、御代焼、錦山焼、萬祥山焼、楽山焼、袖師焼、母里焼、出西焼、温泉津焼、雪舟焼、石州亀山焼)、 岡山県(備前焼、虫明焼)、 広島県(宮島焼)、 山口県(萩焼、堀越焼)、 徳島県(大谷焼)、 香川県(岡本焼、理平焼、御厩焼、神懸焼)、 愛媛県(砥部焼、二六焼)、 高知県(内原野焼、尾戸焼、能茶山焼)、 福岡県(小石原焼、上野焼)、 佐賀県(伊万里焼、有田焼、白石焼、唐津焼)、 長崎県(波佐見焼、三河内焼、小代焼、天草陶磁器(内田皿山焼、高浜焼、水の平焼、丸尾焼)、高田焼、一勝地焼、広山焼、松橋焼)、 大分県(小鹿田焼)、 宮崎県(小松原焼、日向焼)、 鹿児島県(薩摩焼、種子島焼)、 沖縄県(壺屋焼) が選定されています。
知名度
それぞれの焼物の知名度を比較してみました。カッコ内の数値は Google で "焼物名" を検索した時のヒット数(千件単位)です。
- 有田焼(7,810)
- 九谷焼(7,300)
- 信楽焼(6,160)
- 美濃焼(5,480)
- 京焼(5,080)
- 波佐見焼(4,640)
- 越前焼(4,530)
- 備前焼(4,480)
- 清水焼(4,580)
- 萩焼(3,910)
- 萬古焼(3,770)
- 常滑焼(3,500)
- 伊万里焼(3,300)
- やちむん(3,190)
- 薩摩焼(3,180)
- 唐津焼(3,050)
- 益子焼(2,860)
- 瀬戸焼(2,720)
- 楽焼(1,740)
- 伊賀焼(1,650)
- 丹波立杭焼(1,540)
- 小鹿田焼(1,470)
- 砥部焼(1,410)
- 高取焼(1,340)
- 膳所焼(1,230)
- 壺屋焼(1,180)
- 小石原焼(1,150)
- 大樋焼(1,030)
- 明石焼(949)
- 笠間焼(946)
- 赤膚焼(880)
- 上野焼(819)
- 出石焼(728)
- 朝日焼(597)
- 赤津焼(548)
- 現川焼(542)
- 大堀相馬焼(532)
- 犬山焼(521)
- 三川内焼(508)
- 珉平焼(485)
- 小代焼(429)
- 無名異焼(412)
- 大谷焼(395)
- 布志名焼(391)
- 湖東焼(389)
- 宮島焼(336)
- 渋草焼(273)
- 虫明焼(325)
- 高田焼(320)
- 会津本郷焼(279)
- 石見焼(275)
- 平清水焼(241)
- 志戸呂焼(171)
- 今戸焼(144)
- 松代焼(144)
- 肥前吉田焼(126)
- 牛ノ戸焼(119)
- 黒牟田焼(118)
- 珠洲焼(111)
- 堤焼(110)
- 瑞芝焼(76)
- 切込焼(72)
- 楢岡焼(65)
- 武雄焼(64)
- 弓野焼(54)
- 下田焼(50)
- 出西焼(48)
- 男山焼(47)
- 岩国焼(38)
- 一の瀬焼(38)
- 小久慈焼(31)
- 八戸焼(30)
- 小砂焼(19)
- 多田焼(17)
- 天草陶磁器(15)
- 姫谷焼(14)
- 白石焼(14)
- 温泉津焼(11)
- 尾崎焼(4)
日本各地の陶磁器
北海道
札幌焼(さっぽろやき)
北海道札幌市の焼物です。明治32年(1899年)頃から徐々に生産が始まり、中井賢治郎の中井陶器工場などが中心となって活動していましたが、大正14年(1925年)に一度廃退してしまいました。戦後、中井陶器工場の陶工だった涌井広三の甥である涌井辰雄が昭和52年(1977年)に北辰窯を開設して札幌焼を復活。その流れを阿妻一直が継ぎ、昭和61年(1986年)に札幌焼盤渓窯を開設。今に至っています。渋みのある青を基調としたコーヒーカップなどの日用食器が人気の様です。
青森県
津軽金山焼(つがるかなやまやき)
秋田県五所川原市にある焼物です。昭和60年(1985年)に始まった比較的新しい窯元です。数基の登り窯があり、月に2~3度窯焚が行われています。使用頻度が高いため数年ごとに作り直しているそうです。初めて窯出しの様子や登り窯に火が入っているところを見学できました。何人もの作業者が共同作業されており活発でした。焼締め(やきしめ)、牡丹餅(ぼたもち)、緋襷(ひだすき)、棧切り(さんぎり)、胡麻(ごま)など備前焼の特徴が取り入れられています。春と秋には大々的な陶器祭りが開催されています。





八戸焼(はちのへやき)
青森県八戸市でやかれる陶器です。民窯として江戸時代末期まで焼かれていました。一度廃れてしまいましたが、昭和50年(1975年)に無名異焼の渡辺昭山氏による昭山窯によって再興されました。現在は二代目渡辺真樹さんが継いでおられます。青森の自然を体現した緑釉の陶器が人気の様です。八食サービスエイトなどで販売されています。


岩手県
小久慈焼(こくじやき)
岩手県久慈市の陶器。江戸時代(1813年)、福島県相馬の陶工嘉蔵が天田内の甚六の助けを借りて窯業を始めたのが始まり。熊谷家が代々継いでいましたが、六代の頃に後継者問題があり、町の後継者育成事業に選ばれた当時若干15歳の下嶽毅さんが養成学校や修行を経て下嶽岳芳(しもだけがくほう)として七代目を襲名。現在は毅さんの息子の下嶽智美(しもだけともみ)さんが八代目を継がれています。地元の土を使用し、もみ殻やわらの灰を原料とする白い釉薬と、砂鉄を原料とする深い飴色の釉薬が特徴的で、NHK連続テレビ小説「あまちゃん」でも使用されました。
小久慈焼窯元(↗) では直販の他陶芸体験なども実施されています。不定休なので行かれる場合は事前に連絡を。大平園(↗) でも七代目までの久慈焼を販売されています。大平園の隣の 呉服えんどう(↗) でも少し販売されています。この店は「あまちゃん」ファンなら必見。
詳細は「とほほの小久慈焼入門」を参照してください。





鍛冶町焼(かじちょうやき)
岩手県花巻市の4つの焼物のひとつ。文政年間(1818~1831年)に(まきまき花巻によると1804年)開窯。明治末期に本家が廃業、分家も四代目の戦死により昭和18年(1943年)に廃業しましたが、昭和22年(1947年)に益子焼を学んだ阿部勝義氏によって再興されました。現在は二代目の阿部太成さんが作陶されています。青緑・乳白色の独特な風合いが特徴。


台焼(だいやき)
岩手県花巻市の4つの焼物のひとつ。明治28年(1895年)に杉村勘兵衛氏が湯ノ沢焼(小瀬川焼)の窯を活用して開窯。昭和に花巻に移設。大正から昭和にかけて栄えました。Wikipedia では「うてなやき」と書かれていますが、店の説明文には「だいやき」と書かれていました。鈍色の白い器肌が人気の様ですが土色の陶器も試作中とのこと。現在は五代目杉村峰秀さんが継いでおられます。自分の干支に合わせて蠍座模様の描かれた小皿を1枚購入してみました。





瀬山焼(せざんやき)
岩手県花巻市の4つの焼物のひとつ。昭和47年(1972年)に台焼創始者の孫である杉村密郎さんが開窯。竹べらを使って「櫛目波紋」と呼ばれる掘りを行い、蒼い釉薬を施し、岩手出身の宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をイメージしたという「銀河」が人気の様です。ネットでは「蜜郎」と表記されることもありますが「密郎」が正しいようです。現在は密郎さんも亡くなってしまい、陶芸教室を継いでいるという娘さんに色々なことを教えていただきました。



早池峰焼(はやちねやき)
岩手県花巻市の4つの焼物のひとつ。平成6年(1994年)頃に星励忍さんが開窯した比較的新しい窯。星空の光を放つランプシェード「夢灯(ゆめあかり)」、早池峰うすゆき草の花をあしらったカップなどが人気の様です。残念ながら訪問した日は閉まっていました。


宮城県
堤焼(つつみやき)
宮城県仙台市で焼かれる陶器。江戸時代に仙台が城下町として整備された頃、素焼きの鉢や甕を生産していたのが始まりです。江戸時代中期には、仙台藩主伊達綱村が江戸から今戸焼の陶工・上村万右衛門を招いて指導にあたらせ、釉薬を施した茶器などが作られました。昭和初期には民芸運動の柳宗悦が「東北を代表する民窯」と誉め、20軒近くの窯元や業者がありましたが、現在では乾馬窯(けんばがま)1窯のみとなっています。黒と白の釉薬を豪快にかけ流した海鼠釉(なまこゆう)が有名です。



秋田県
白岩焼(しらいわやき)
秋田県仙北市で焼かれる陶器。明和8年(1771年)に大堀相馬焼の松本運七を呼んで秋田藩初の窯元として開窯。最盛期には6つの窯に5千人の従事者を擁しましたが明治に入り衰退。明治29年(1896年)の地震もあり、明治33年(1900年)にはすべての窯が廃窯。現在の白岩焼は、昭和50年(1975年)に窯元末裔の渡邊すなおさん(女性)が民藝運動の柳宗悦、人間国宝の濱田庄司、秋田県知事小畑勇二郎らの協力もあり、和兵衛窯を復興させたものです。あきたこまちの籾もみの灰を用いた深い青味の海鼠釉が人気です。


楢岡焼(ならおかやき)
秋田県大仙市の陶器。文久3年(1863年)に地元旧家の小松清治が外地(大堀相馬焼説が有力)から陶工を招いて開窯。初代小松清治、二代宇一、三代弥一、四代幸一郎、五代哲郎と小松家が代々制作を続けられています。土色の陶器に青色の海鼠釉をたっぷりとかけたものが人気の様です。高台にまで海鼠釉の垂れたぐい吞みを購入。




山形県
上の畑焼(かみのはたやき)
山形県尾花沢市の焼物です。江戸時代末期に伊万里の流れをくむ磁器の産地として活動していましたが、財政難によりわずか10年ほどで衰退し「幻の焼物」と呼ばれていました。これを、花沢市出身の伊藤瓢堂が昭和55年(1980年)に復活。伊藤瓢堂さんの東羽都山窯で伊藤瓢堂さん、伊藤千春さん、松浦加奈さん、平成4年(1992年)に開窯した東羽美山窯で高橋美山さん達が作品を作られています。「風水三多紋」と呼ばれる、風水の縁起をかつぎ、白地の磁器に藍色で桃、柘榴(ざくろ)、仏手柑の三つの果実の絵を描いた皿などが作られています。
平清水焼(ひらしみずやき)
山形県山形市で焼かれる陶器。文化年間(1804~1818年)に常陸の小野藤次平(小野藤治平)が開窯。平安時代に円仁(慈覚大師)が千歳山の土を使って教えたとも伝えられます。明治中期には30ほどの窯がありましたが、現在では下記の2窯のみのようです。梨の肌合いのような梨青瓷(なしせいじ)、春の山々に残る雪風景をイメージした残雪(ざんせつ)が人気の様です。






福島県
会津本郷焼(あいづほんごうやき)
福島県大沼郡会津本郷町(現:会津美里町)で焼かれる陶磁器。安土桃山時代の1593年、会津領主蒲生氏郷が播磨から瓦工を呼んで瓦を焼かせたのが始まり。1645年には尾張から水野源左衛門が招かれ陶器を焼き、1800年には佐藤伊兵衛が有田で学んだ磁器を焼きました。水野は「陶祖」、佐藤は「磁祖」として陶祖廟に祀られています。現在は12の窯があり、陶器から磁器まで多種多様な焼物が焼かれています。国の伝統的工芸品に指定されています。
詳細は「とほほの会津本郷焼入門」を参照してください。




大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)
福島県相馬地方浪江町で焼かれていた陶器。 元禄年間(1688-1704年)、相馬中村藩士半谷休閑が浪江町で陶土を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼くようになったのが始まり。鉄分を含んだ釉薬を用いて還元炎焼成後に冷却することにより発生する「青ひび」、藩主相馬氏の家紋から縁起物とされる「走り駒」、外部と内部を別々に作り焼成前につなぎ合わせて作成する「二重焼」が主な特徴です。浪江町に多くの窯元がありましたが、震災原発事故により浪江町での継続が難しくなったため、県内(一部は県外)の様々な地域に移転している窯が多いです。国の伝統的工芸品に指定されています。



茨城県
笠間焼(かさまやき)
茨城県笠間市の陶磁器。1770年代にはじまった「箱田焼」と「宍戸焼」が源流と言われています。「特徴がないのが特徴」と言われるように、日用食器を中心に古今和洋様々なものが焼かれています。ゴールデンウィークには陶炎祭(ひまつり)が開催されます。陶器店は広範囲にあるので、車でない場合は笠間駅でレンタサイクルを借りると荷物も預けられて便利です。国の伝統的工芸品に指定されています。



栃木県
益子焼(ましこやき)
栃木県芳賀郡益子町周辺の陶器。薄く色づいた白、淡い青、淡い土色など様々な色やデザインのものがあります。江戸時代末期に笠間で修行した大塚啓三郎が始め、江戸に近いことから鉢や水瓶などの日用品を多く生産するようになりました。1924年には濱田庄司が日用品の中に美を見出す民芸運動を進める拠点として益子を選び、活動しました。現在も約160の窯元、約50の陶器店が並びます。ゴールデンウィークと11月頃には陶器市が開催されます。国の伝統的工芸品に指定されています。


群馬県
月夜野焼(つきよのやき)
群馬県月夜野町(現:みなかみ町)で焼かれる焼物です。昭和50年(1975年)、波佐見焼で修行した初代福田祐太郎の跡を継ぎ、二代福田祐太郎が月夜野町に窯を移したのが始まりです。福田祐太郎記念館が併設されており200円で見学することができます。購入したのは二代福田祐太郎作の唐津焼っぽさもあるぐい吞みですが、赤い発色の銅紅釉辰砂と、緑青の肌合いの青銅釉焼成が特徴とのこと。



自性寺焼(じしょうじやき)
群馬県安中市の焼物。江戸時代中期から始まり、明治38年(1905年)に途絶えていましたが、昭和53年(1978年)に青木昇氏が再興。陶磁器では群馬県唯一の県指定伝統陶芸品に指定されています。金花紋(きんかもん)と呼ばれる金色の花模様のような模様を始めとして様々な色の焼物が焼かれています。金花紋のぐい吞みをひとつ購入しました。



埼玉県
飯能焼(はんのうやき)
埼玉県飯能市で生産されていた陶器。定かではないが天保3年(1832年)から明治20年(1887年)頃と言われている。現在の飯能焼は昭和50年(1875年)に再興したもの。現在は虎澤ますみさんが伝統と新しさを融合させた焼物を焼かれています。深い湖をイメージする「翠青磁」、空の色をイメージする「トルコブルー」、両者を合わせた「翠碧」など、青色が綺麗でした。





千葉県
大多喜焼(おおたきやき)
千葉県大多喜町の焼物。明治20年(1887年)から昭和25年(1950年)まで鈴木菊太郎さんが焙烙(ほうろく)を焼いていたのが始まり。一時途絶えていましたが、井口峰幸さんが昭和63年(1988年)に大多喜町に阿弥陀窯を開窯されて復活しました。地元の土や釉薬を用いた陶器を焼かれています。

AMIDA YOU

ぐい吞み

ぐい吞み
東京都
今戸焼(いまどやき)
現在の東京台東区今戸を中心とする陶器です。江戸時代から明治時代にかけて焼かれていました。幕末には50軒もの窯があり、日用雑器や土人形、瓦などが生産されていました。大正12年(1923年)の関東大震災で生産拠点の多くが葛飾区に移り、昭和40年頃まで続いていましたが葛飾区での生産は今は途絶えているようです。今戸で1軒のみ白井裕一郎さんが制作を続けられているようです。
神奈川県
眞葛焼(まくずやき)
神奈川県横浜市で焼かれていた焼物。横浜焼とも呼ばれます。元々は、京都で眞葛焼を営む家系があり、その五代目の四男が宮川香山が横浜に移り住み、横浜に香山眞葛焼として窯を開いたのが始まりです。薩摩焼を基本としながらも、金の代わりに彫刻によってリアルな蟹などの細工を形作り、海外にも人気がありました。四代香山まで続きましたが廃窯。現在は宮川香山眞葛ミュージアムなどでその作品を見ることができます。
山梨県
能穴焼(のうけつやき)
山梨県韮崎市で焼かれていた焼物。天正年間(1573-1592年)に武田家のお庭焼として始まったといわれています。一時廃れましたが、瓦職人の林茂松が昭和10年(1935年)に再興しました。初代の急逝により昭和18年(1943年)二代目林茂松が後を継ぎ、山梨県では唯一の「○○焼」と呼ばれる窯元でしたが、Google マップを見ると現在は閉業と表示されるようです。
長野県
松代焼(まつしろやき)
長野県長野市松代地区で焼かれる陶器。寛政年間(1789-1801年)に唐津で修行した嘉平次が開窯。文化13年(1816年)には松代藩の藩窯として栄えましたが昭和初期までにすべてが廃窯。現代の松代焼は昭和47年(1972年)に陶器の破片の資料を参考に再興されたものです。現在は4つの窯があります。写真のぐい吞みは青や茶の濃いものですが、もう少し白や緑の淡さがでるものがよいそうです。画像検索を参照してください。







高遠焼(たかとおやき)
長野県上伊那郡高遠町(現:伊那市)で焼かれる陶器。文化9年(1812年)、美濃から陶工を呼んで高遠城に水を引く土管を作らせたのが始まりと言われます。昭和初期に一度衰退しましたが、昭和50年(1975年)に唐木米之助氏が白山登窯を築き復興しました。赤土を基調として白と緑など2種類の釉薬をかけた「二重掛け」が人気の様です。





新潟県
無名異焼(むみょういやき)
新潟県佐渡ヶ島で焼かれる陶器。文政2年(1819年)に伊藤甚平が佐渡金山の朱泥(無名異土)を用いて楽焼を製造したことが始まり。安政4年(1857年)に伊藤富太郎が本焼を始め、明治時代には三浦常山や伊藤赤水らによって現在の無名異焼ができました。五代伊藤赤水は人間国宝に認定されています。赤水窯には行けなかったのですが、両津港で少しだけ販売されていました。購入したのは青や白のものですが、朱泥を活かした赤みを帯びた焼物も人気の様です。画像検索を参照してください。国の重要無形文化財および伝統的工芸品に指定されています。




新津焼(にいつやき)
新潟県新潟市で焼かれる陶器。安政5年(1858年)に西潟製陶所が開窯。民窯として経営を続けてきました。2016年、五代目に後継者が無く廃業の危機にあったところ、五代目の姪、押味玖弥呼(おしみくみこ)さんが六代目を襲名。新しく「もえぎ陶房」の屋号を冠し、伝統を継ぎながら猫などをモチーフにした新しいブランドも展開されています。前足が不自由で3本足の猫「柿子(かきこ)ちゃん」を17年間買い続けたエピソードなども聞き、猫模様のぐい吞みをひとつ購入してみました。


富山県
越中瀬戸焼(えっちゅうせとやき)
富山県立山町瀬戸地区で焼かれる陶器。平安時代初期から須恵器の産地であり、桃山時代や文禄・慶長年間には前田利長の保護を受けた尾張瀬戸の彦右エ門・小二郎・孫市・市右エ門・長八らが窯を開き栄えましたが、明治・大正時代に衰退。昭和時代に入り有志らの協力により復活しています。現在は「枯芒ノ窯」「四郎八窯」「千寿窯」「庄楽窯」の4窯および周辺の作家さん達が、それぞれの特徴を活かした活動を続けられています。中でも、庄楽窯のジョブズの逸話は我々IT屋にとってとても興味のあるものでした。
ジョブズの逸話:京都で庄楽窯の展示会をやっていると、見知らぬ外人さんが3日間通い詰めて焼物を何点も購入。また、22cm 四方で上部は黒で下部は土色の角丸の皿を焼いて欲しいと特別注文。後日、その人がスティーブ・ジョブズだったことが判明。ジョブズが Apple を追い出され、NeXT で角ばった直方体のコンピューターを開発し、映画トイストーリーの制作会社 Pixer に出資してたりする時期。この時の角丸が、iPhone のアイコンの角丸デザインにも影響を与えたと言われているそうです。我々IT屋にとってはこのエピソードに無茶苦茶感動。(NeXTコンピュータ、兄貴が持ってました。)









越中三助焼(えっちゅうさんすけやき)
富山県砺波市の焼物。江戸の終わりから明治にかけて瓦職人の谷口三助と長男の太七郎が窯を開いたのが始まり。今は四代目谷口三明さん、五代目谷口均さん、六代目谷口由佳さんが携わっておられます。緑と白の釉薬のツートンの色合いの陶器が味わいです。普段は1窯1ぐい吞みくらいしか買わないのですが、ちょっと、小皿も追加購入しちゃいました。三明さん、均さん、お二方とも車が好きそうでした♪



石川県
九谷焼(くたにやき)
石川県金沢市、小松市、加賀市、能美市周辺の磁器。有田・伊万里焼に継ぐ磁器の名産地です。白地に五彩(緑・黄・紫・赤・紺青)を用いた古九谷(こくたに)、赤を基調に人物図を描く木米(もくべい)、赤を使わず黄と緑を基調とする吉田屋(よしだや)、白地に赤い文様の飯田屋(いいだや)、古九谷や吉田屋の技法を再現した庄三(しょうざ)、赤字に金襴の永楽(えいらく)など、時代により様々な様式のものが生み出されてきました。九谷陶芸村で数々の窯の焼物をまとめて見ることができます。国の伝統的工芸品に指定されています。






珠洲焼(すずやき)
石川県珠洲市の陶器です。須恵器の技法を引き継いでおり、粘土を巻き上げ、叩きしめ、無釉のまま高温で焼き上げます。灰が自然釉となり灰黒色の素朴ながら力強い雰囲気のものが多いのが特徴です。閉館間際の駆け込みだったのでゆっくり見ることはできませんでしたが、珠洲焼館で多くの作家さん達の作品を見ることができます。

大樋焼(おおひやき)
京都の楽焼の伝統を受け継ぐ脇窯です。樂家四代一入の高弟であった初代長左衛門が大樋の姓を名乗り楽焼の脇窯として開窯。初代大樋長左衛門から七代大樋長左衛門まで継続しましたが廃絶。その後、七代目の弟子であった奈良家が八代目を継続して大樋長左衛門窯を開きました。しかしその後、七代目の直系子孫も八代目を継続、両者の間で裁判となりました。裁判の結果は「どちらも初代の業統・業名を法律上正当に承継した者ではない」と喧嘩両成敗の判決となっています。Wikipedia の「大樋焼」のページには、この裁判について記載する・しないの、当事者も交えた大論争があった模様です。どちらが「本物」という訳ではなく、七代続いた大樋焼の伝統を複数の窯が真剣に後世に受け継いでいこうとされているのだと思いたいですね。





福井県
越前焼(えちぜんやき)
福井県丹生郡越前町の陶磁器。平安時代末期にはじまる古い焼物で水瓶などを生産していましたが水道の普及により寿命が落ち込み一時は衰退していました。昭和23年(1948年)水野九右衛門氏、小山冨士夫氏によって調査が進められ、日本六古窯 のひとつに数えられられたことなどから復興し、現在に至っています。土の風合いをそのままに活かした素朴なものが多く、花瓶などがよく扱われています。越前陶芸村を中心に約80もの窯があります。国成窯を訪問したところ、越前焼の歴史や土について親切に教えていただけました。国の伝統的工芸品に指定されています。


岐阜県
美濃焼(みのやき)
岐阜県土岐(とき)市、多治見(たじみ)市、瑞浪(みずなみ)市、可児(かに)市に跨る陶磁器。日本三大陶磁器 のひとつ。「黄瀬戸」、「瀬戸黒」の他、国宝「卯花墻(うのはながき)」を生み出した「志野焼」、利休の弟子、古田織部(漫画「へうげもの」の主人公)が監修した独特なユーモラスさをもつ「織部焼」などに分類されます。国の伝統的工芸品に指定されています。




山田焼(やまだやき)
岐阜県高山市の3つの焼物のひとつ。明和年間(1764-1771年)、稲垣藤四郎 によって開窯されたと言われています。飛騨高山で一番歴史の古い窯元ですが、最盛期には9軒の窯元があったものの、その後小林陶舎(小林鳳山)1軒となり、それも現在は廃業されているようです。「飛騨高山まちの博物館」で「山田焼」「渋草焼」「小糸焼」の焼物を少し見ることができました。


渋草焼(しぶくさやき)
岐阜県高山市の3つの焼物のひとつ。天保12年(1841年)豊田藤之進が唐津・九谷・尾張瀬戸から職人を招いて官民共同で開窯。勝海舟より芳国舎と命名され海外からも評価されているとのこと。店舗では通常の焼物の他、金継ぎを施した陶器も売られていました。主力品と少々趣は異なりますが金色が塗された小皿を1枚購入してみました。



小糸焼(こいとやき)
岐阜県高山市の3つの焼物のひとつ。寛永年間(1620年代)に飛騨藩主金森重頼が京から陶工を招いて焼かせたのが始まりですが、その後廃業(第1期)。天保7年(1836年)に再興しますが5年で廃業(第2期)。現在の小糸焼(第3期)は戦後に長倉三朗さんが再興されたものだそうです。



静岡県
賤機焼(しずはたやき)
静岡県静岡市で焼かれる陶器。江戸時代初期に太田七郎衛門が開陶。三方ヶ原の戦い(1573年)で徳川家康が武田軍に包囲された際「鬼は外、福は内」と騒いで敵を動揺させ、無事生還したことがありました。太田七郎衛門がこれを祝い、外側に鬼瓦、内側に福面を描いた盃を献上。家康から「賤機焼」の称号を授かり御用窯として栄えました。文政末期一度衰退しましたが明治中期に再興。初代青島庄助氏、二代目五郎氏、三代目參代秋果氏、四代目肆代津一氏、五代目伍代春秋果氏に引き継がれています。今でも「鬼福」と呼ばれる焼物が焼かれています。賤機のシズは静岡のシズの由来とされています。



志戸呂焼(しとろやき)
静岡県島田市金谷地方で焼かれる陶器。「しどろやき」と読まれることもあります。室町時代に始まり、天正16年(1588年)に徳川家康から朱印状を授けられ御用窯として発展していました。遠州七窯 のひとつとして数えられています。「質粗にして土色淡赤、釉色は濁黄に黒色を帯び・・・陶質堅実なり」と言われるように茶人に好まれる素朴な茶器があります。しばらく前までは6つの窯が残っていましたが、現在は廃業している窯もあるようです。



森山焼(もりやまやき)
明治42年(1909年)に初代中村秀吉氏が志戸呂から鈴木青邨氏を招いて開窯。志戸呂焼の流れをくみながらも紅色や緑色など様々な色彩の焼物が焼かれています。「中村陶房」、「青邨陶房」、「晴山陶房」、「田米陶房」の4つの窯がありましたが、「田米陶房」は閉業。「晴山陶房」は先代が亡くなり息子さんが対応することはあるものの現在は見学できないとのことでした。




愛知県
瀬戸焼(せとやき)
愛知県瀬戸市周辺の陶磁器。日本三大陶磁器、日本六古窯 のひとつ。瀬戸染付焼とも呼ばれます。日本の陶磁器の代表格で、陶磁器のことを「瀬戸物」とも呼ぶくらい、日本の陶磁器の代表格でもあります。古いものから新しいデザインのものまで、ありとあらゆるジャンルの焼物がそろっています。美濃焼と近いこともあり、町を回ると流行りの織部焼などが売られていたりもします。国の伝統的工芸品に指定されています。

常滑焼(とこなめやき)
愛知県常滑市の陶磁器。日本六古窯 のひとつ。平安時代末期(1,100年頃)から続く古い産地です。釉薬を用いない「焼締(やきしめ)」と呼ばれる焼き方が特徴です。江戸時代に稲葉庄左衛門が始めた赤茶色の急須は現在も常滑焼の主力製品で、日本全国の家庭でもよく見かけると思います。知らない人でも画像を見ると「あぁ、これかぁ」と思うはず。国の伝統的工芸品に指定されています。

犬山焼(いぬやまやき)
愛知県犬山市の陶磁器。宝暦年間(1751~1764年)頃に開窯。中国の呉州手を真似た呉州手写(ごすでうつし)、楓と桜を描いた雲錦手(うんきんで)、笹や竹文を描いた銹絵(さびえ)などが特徴。乾山を模した赤絵呉須風の作風は犬山乾山とも呼ばれました。現在では大澤窯、後藤窯、尾関窯の3窯があります。犬山陶器陳列場では主に大澤窯のものを扱っています。






赤津焼(あかづやき)
愛知県瀬戸市赤津地区の焼物。平安時代の開窯と言われています。戦国時代に多くの窯が美濃に移りましたが、江戸初期に尾張藩主徳川義直(最近の説では徳川家康)が赤津村に呼び戻し復興を図りました。尾州御庭焼として栄え、明治維新後も継続し、現在も20を超える窯元が活動を続けています。毎年5月と11月の第2土・日曜日に「赤津窯の里めぐり」が開催されています。国の伝統的工芸品に指定されています。
三重県
萬古焼(ばんこやき)
三重県四日市市を中心とする陶磁器。四日市萬古焼とも呼ばれます。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類されます。土の色合いを生かした急須や土鍋が有名。葉長石(ペタライト)を使用することで熱膨張を抑え割れない土鍋を開発して海外にも輸出しています。国の伝統的工芸品に指定されています。




伊賀焼(いがやき)
三重県伊賀市の陶器。5世紀前後に発祥。桃山時代「古伊賀」の時代には古田織部らの指導により「織部好み」と呼ばれる、歪みの激しい造形、自然釉や焦げの景色を尊ぶ豪快な侘びを持つ作風の水指や花入が生産されました。18世紀以降「再興伊賀」の時代には施釉陶の日常雑器を中心とし、雪平鍋、土瓶、土鍋などが全国に向けて生産されました。渋みのある緑がよく使用されます。2021年時点で約50の窯元があります。国の伝統的工芸品に指定されています。






滋賀県
信楽焼(しがらきやき)
滋賀県甲賀市を中心とする陶器。日本六古窯 のひとつ。鎌倉時代に常滑焼の技術が伝わり、始められました。土を洗浄することなくそのまま用いて、土感をそのままに生かした力強いものが特徴です。以前は日本の火鉢のシェア80%を占めていました。今では狸の置物が有名ですので、これも、写真を見ると「これかぁ」と思うでしょう。国の伝統的工芸品に指定されています。

膳所焼(ぜぜやき)
滋賀県大津市の陶器。遠州七窯 のひとつ。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいていると言われていました。江戸初期(1621~1651年頃)に焼かれていましたがその後衰退。幾つかの窯元が復興を目指しましたが、残っているのは大正8年(1919年)に岩崎健三氏が全財産を投げうって再興した膳所焼窯元陽炎園のみのようです。岩崎健三氏の後を息子の岩崎新定氏が継ぎ、現在は柴山哲治氏が当主を努められているようです。陽炎園には膳所焼美術館も併設されています。

京都府
楽焼(らくやき)
京都の焼物で、瓦職人の長次郎が千利休の指導により、聚楽第建造の際に掘り出された土を使って焼き上げた「聚楽焼」が始まりといわれています。「一楽二萩三唐津」と言われ茶人に愛されてきました。轆轤(ろくろ)を使わず手捏ね(てづくね)で成型するものが多いようです。長次郎の妻の祖父田中宗慶が豊臣秀吉から「聚楽第」の1文字を取り「樂」家の名前を与えられたのが樂家のはじまりで、二代目以降は 樂吉左衛門 の名を世襲します。先代には後代に名を譲った後に 道入、宗入、覚入、直入などの名が送られます。現在は第十五代吉左衛門(直入)から第十六代吉左衛門が名を継いでいます。詳細は下記の家系図を参照してください。樂家の他に、国宝 不二山 の作り手本阿弥光悦が居ます。光悦の玄孫(孫の孫)は樂家に婿入りし第五代吉左衛門(宗入)となりました。画家として有名な尾形光琳も光悦の玄孫(宗入の従弟)になります。
楽焼のお猪口をひとつと思っていたのですが、樂美術館で展示品を鑑賞する他は、簡単に売っているものでもなく、簡単に買えるものでもなかったので、仕方なく樂美術館の写真をはっときます。

京焼・清水焼(きょうやき・しみずやき)
京都の陶磁器。有田焼・伊万里焼のように赤色などを用いた繊細な文様のものも多いですが、少し繊細な色合いが特徴です。東山山麓地域を中心に焼かれるものを京焼、清水寺の参道(五条坂)付近で焼かれるものを清水焼と呼んでいましたが、現在ではこれらを区別なく「京焼・清水焼」と呼んでいます。経済産業大臣指定伝統的工芸品としての名称も「京焼・清水焼」の様にまとめて呼ばれます。紅葉と桜をまとめて描いた模様を雲錦(うんきん)と呼び、京焼・清水焼で好まれる絵柄のひとつとなっています。本阿弥光悦の玄孫(孫の孫)である尾形乾山(尾形光琳の弟)なども有名です。国の伝統的工芸品に指定されています。




朝日焼(あさひやき)
京都府宇治市の焼物で 遠州七窯 のひとつとされていた朝日焼です。陶作(初代)から始まり、宇治のお茶と共に歩み、現在は十六世豊斎が当主となっています。平等院の川向に朝日焼のShop&Galleryが1軒だけあり、十六世松林豊斎の作品や、他の職人によって朝日焼工房で焼かれた一品を見学・購入することができます。



大阪府
古曽部焼(こそべやき)
江戸後期から大正時代にかけて摂津国嶋上群古曾部村(現:大阪府高槻市古曽部町)の五十嵐家にある古曽部窯で焼かれていたものです。遠州七窯 にも選ばれたものでしたが、今は廃業していて住宅街の中にひっそりと窯跡の石碑と案内板だけがあります。石碑の前は車の通れない狭い道なので、行くなら北側の広い道路から歩いた方がよさそうです。焼物は高槻市立歴史民俗資料館で見ることができます。



兵庫県
出石焼(いずしやき)
兵庫県豊岡市出石町の磁器。出石は皿そばが有名ですが、町内に何軒も、出石焼の皿で提供される皿そばの店があります。「白より白い」とも言われる白磁が有名で、白磁に精密な浮彫・透かし彫りを施したものをよく見かけます。出石観光案内所を中心に、いくつかの製陶所があります。山本製陶所の青の練り込みのものがお気に入りです。国の伝統的工芸品に指定されています。


丹波立杭焼(たんばたちくいやき)
兵庫県丹波篠山市の陶磁器。「丹波焼」とも呼ばれます。日本六古窯 のひとつ。17世紀頃には、東日本側で瀬戸焼と二分するくらいのシェアがあったそうです。登り窯の中で松の灰が釉薬と化合して窯変して「灰被り」と呼ばれる文様をなすのが特徴ですが、土色の壺から現代的な色合いのティーカップなど、古風なものから現代的なものまで、様々な色やデザインのものがあります。国の伝統的工芸品に指定されています。

明石焼(あかしやき)
兵庫県明石市を中心とする陶磁器。淡い色彩ながら、薄赤、薄青、薄緑、薄黄など様々な色のものがあります。江戸時代後期に最盛期となり、明治にも輸出が盛んでしたが、大正時代に入り衰退し、現存する窯は少ないそうです。
奈良県
赤膚焼(あかはだやき)
奈良県の奈良市と大和郡山市で生産される陶器。開祖はよく分かりませんが、奥田木白 が中興の祖として赤膚焼を発展させ、遠州七窯 のひとつにも数えられました。現存する窯の中では 赤膚山元窯/古瀬堯三 の名が古くからありますが、大塩正人も十代の歴史を持つようです。赤土の陶器に乳白色の萩釉を掛け奈良絵文様を施したものが特徴的。
詳細は「とほほの赤膚焼入門」を参照してください。
- Wikipedia
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- 赤膚山元窯/古瀬堯三(ふるせぎょうぞう)
- 大塩正人窯(おおしおまさんどがま)
- 大塩昭山(おおしおしょうざん)
- 大塩玉泉(おおしおぎょくせん)
- 大塩正士陶房(おおしおまさしとうぼう)
- 寧屋工房(なやこうぼう)
- 小川二楽(おがわにらく)
- 尾西楽斎(おにしらくさい)








和歌山県
瑞芝焼(ずいしやき)
和歌山県和歌山市の陶器。寛政8年(1796年)に岡崎屋阪上重次郎が和歌山市畑屋敷新道町(旧鈴丸町)で開窯したのが始まりで当時は鈴丸焼と呼ばれていました。享和元年(1801年)に滅法谷に移転して滅法谷焼とも呼ばれました。同年、紀州徳川家の徳川治宝に命じられ、青木木米(九谷焼の木米の指導も行った京都の文人)の指導の元青磁を焼くようになり、治宝から「瑞芝」の名前がつけられ、男山焼、偕楽園焼と並び紀州三大陶窯のひとつとなりました。1874年第三代阪上重次郎の代に一度廃窯しましたが、1973年第五代阪上節介が美濃の梅平窯で修業した後、地元に戻り善明寺で復窯。現在は第六代阪上重次郎さんが継がれています。
瑞芝焼窯元瑞芝堂まで行ってみたのですが、あいにく休み。仕方なく庭先にあった焼物の写真を撮らせていただきました(勝手に...スミマセン)。他に販売店とかも見つからず、オークション等で手に入れるしかないかも。あとは、和歌山市観光土産品センターで売っていたかも?


偕楽園焼(かいらくえんやき)
紀州徳川家の御庭焼き。1827年頃に徳川治宝が西浜御殿内の偕楽園(現在の和歌山市西浜3丁目付近。徳川斉昭が造園した水戸の偕楽園とは別)で焼かせたのが始まりです。京都から永樂保全、仁阿弥道八や、樂家の九代了入、十代旦入らを招いて製作しました。楽焼の他、黄・紫・緑等の交趾・青磁等があります。瑞芝焼、男山焼と並び紀州三大陶窯のひとつとなりましたが、治宝が亡くなる1852年頃には廃れてしまいました。
男山焼(おとこやまやき)
和歌山県有田郡広川町の陶器。紀州徳川家の徳川治宝が藩の御用窯として開いたのが起源で、1827年に崎山利兵衛が発願、藩の支援の元半官半民の形で開窯しました。広川町男山の南面にあったことから男山焼と呼ばれ、瑞芝焼、偕楽園焼と並び紀州三大陶窯のひとつとなりました。26基の窯を持ち、日用雑器を主力とし、和歌山県有田市箕島の箕島陶器商人(宮崎陶器商人)らによって全国各地に摘みだされました。この時には伊万里焼と称して売られていたこともあったようです。白地に繊細な青の模様が綺麗です。しかし、治宝の死後経営難が続き、1856年頃藩から民営に払下げられ、多少の支援は続いたものの、明治になってからは支援も途絶え、1878年頃に廃窯しました。1992年に広川町のふるさと創生事業の一環として男山焼会館が開館し、当時の作品を展示すると共に陶芸教室が開かれています。
- 画像検索
- 男山焼会館
- 紀州男山陶器場について(中村貞史)

紀州焼(きしゅうやき)
昭和7年(1932年)に初代寒川栖豊が和歌山県高野山小田原で開窯したのが始まり。昭和12年(1937年)に紀州旧藩主徳川頼貞から紀州焼葵窯の名を賜わり、紀州の焼物(瑞芝焼、男山焼、偕楽園焼)の復興を目指しました。現在の白浜に移転。1956年には念願の那智黒釉を完成させ、しっとりとした黒色が茶人に愛されてきました。現在は第二代寒川栖豊さんが継いでおられます。


鳥取県
牛ノ戸焼(うしのとやき)
鳥取県鳥取市河原町で焼かれる陶器。天保年間(1831-1844年)、因幡の陶工金河藤七によって開窯。後に小林梅五郎に継承。その後は小林家により代々引き継がれています。島根の 布志名焼、出西焼 と同様、柳宗悦、バーナード・リーチらの指導も受け、民藝運動の影響を受けています。黒と緑の釉薬によるツートンが特徴的。
島根県
布志名焼(ふじなやき)
島根県松江市玉湯町布志名を中心とする焼物ですが、淡い青色・水色の雲善窯(うんぜんがま)、淡い土色に絵を施した雲寅窯(うんとらがま)、ジブリ映画に出てきそうな暖かい茶系が特徴の湯町窯(ゆまちがま)など、窯によって様々な焼物があります。島根県の安来市、松江市、出雲市、太田市、江津市、浜田市、益田市にかけては、山陰焼物ベルトとも言うべき、いろいろな窯、いろいろな焼物があり、とても2日間ではまわりきれませんでした。

出西焼(しゅっさいやき)
島根県出雲市斐川町出西の出西窯。昭和23年(1948年)初窯の比較的新しい焼物です。「出西ブルー」と呼ばれる鮮やかなターコイズブルー特徴的です。「くらしの陶・無自性館」という展示販売場があります。「縁鉄砂呉須釉皿(ふちてっさごすゆうざら)」がとても綺麗でした。行った時には気に入る出西ブルーの猪口・ぐい吞みはなかったのですが、どうしてもブルーの猪口が欲しくなり、後日ネット購入しました。


温泉津焼(ゆのつやき)
島根県太田市温泉津町の焼物。宝永年間(1704-1708)に始まり、食器や水を溜め置く半斗(はんど)などを出荷していましたが、プラスチック製品や水道の普及により一時衰えましたが、現在も静かな山道に、椿窯、(有)椿窯、森山窯という3つの窯があります。「やきものの里」という展示販売所で3窯の作品を見たり購入することができます。

石見焼(いわみやき)
島根県江津市を中心とする焼物です。温泉津焼と同様、明治時代には飯銅(はんどう)と呼ばれる水瓶の生産で100を超える窯元がありました。今では生産は減っているものの、江津市から浜田市ににかけていくつかの窯元があります。素朴な色合いの 延里窯、渋さを感じる 石州嶋田窯、すり鉢主力の 元重製陶所、白の釉薬が綺麗な 石州宮内窯、梅干しを入れたくなる 吉田製陶所、淡い色合いの 尾上窯、カラフルな 雪舟窯、深海を思わせるブルーの 亀山窯(石州亀山焼)、窯変天目的ようなブルーの 秀山窯、落ち着いたブルーの 桝野窯など、それぞれの窯元によって個性が出ていて面白いですね。国の伝統的工芸品に指定されています。


岡山県
備前焼(びぜんやき)
岡山県備前市の焼物です。日本六古窯 のひとつ。釉薬を用いない陶器の代表格です。赤みがかった土独特の味わい。焼きの際、藁をあてがって赤と白の焼きむらをつける「緋襷(ひだすき)」や、他の陶器を重ねて焼くことによりできる「牡丹餅(ぼたもち)」などの模様が人気です。私は酸素不足な状態で焼かれることで青い雰囲気のでる「青備前」が好きです。国の伝統的工芸品に指定されています。


虫明焼(むしあけやき)
岡山県瀬戸市邑久町虫明地区で生産される陶器。備前焼と非常に近い場所ですが、備前焼とは全く異なり、深い味わいのある緑の焼物が好きです。焼物会館とか専門店は無く、現在の第一人者黒井千左さんの自宅で、千左さんご自身やお弟子さんたちの作品の展示と販売が行われていました。今のところ一番のお気に入りです。

広島県
宮島焼(みやじまやき)
広島県廿日市市の陶器。安芸の宮島の近くです。天明・寛政の頃に宮島の砂を「お砂守」として受け取って旅に出て、それを土器に混ぜて焼いた「お砂焼」が始まりと言われています。「御砂焼(おすなやき)」や「神砂焼(しんしゃやき)」とも呼ばれます。淡いピンク色が綺麗で、素朴なつくりのものが多いです。1910年には京都で修行した川原陶斎が窯を開き、1912年に山根興哉が続きました。本物の宮島の紅葉の葉を張り付けて模様としたものが特徴的です。一時は衰退しましたが、1892年に再興。宮島の島の中ではあまり売っている店は無く、フェリー乗り場の本土側に3軒の店があります。


姫谷焼(ひめたにやき)
広島県福山市でかつて栄えていた陶磁器。有田焼(伊万里焼)、九谷焼と並び、日本の三大磁器産地ともいわれた時期もありましたが、生産期間は 1660~1685年頃と短く、現在は幻の焼物となっています。有田焼、九谷焼と同じく、白磁に赤を特徴とする絵柄のものですが、草花をシンブルに描いたものが多く、有田・九谷よりは若干素朴な雰囲気に感じます。
山口県
萩焼(はぎやき)
山口県萩市の焼物です。「一楽二萩三唐津」と言われ、茶人に愛されてきました。陶土と釉薬の具合によってできる「貫入」や、使い込むことにより変化する「七化け」がよいそうです。お茶をやっている人だと、三輪休雪(みわきゅうせつ)さんのお茶碗とか有名みたいですね。私は、ちょっと新しい萩焼の感じの小田光治さんが気に入り、徳利を購入してみました。国の伝統的工芸品に指定されています。


多田焼(ただやき)
元禄13年(1700年)に京都から陶工を招き、岩国藩の御用釜として岩国氏多田に開窯しました。約100年間で1000点近くが献上されましたが多くは残っていません。一度は廃れましたが、1973年に初代雲渓さんが多田の地で多田焼を復活させ、1981年に美川町河山に転窯、現在は二代雲渓さんが継いでおられます。上品さの感じられる淡い緑色の、貫入のはいった青磁釉が特徴です。
岩国焼(いわくにやき)
多田焼の近くで1973年に山田象陶(しょうとう)氏が吉香窯を開窯されました。現在は、象陶さんは窯元と同じ場所で食べログでも評価の高い「手打ちうどん 山田屋」を経営されていて、焼物は息子の哲夫さんが継いでおられます。多田焼に比べ、鉄釉(黒)、青磁など様々な色合いのものが焼かれています。写真のものは岩国の白蛇にちなんで白蛇釉と名づけられています。うどんも美味しかったです。

徳島県
大谷焼(おおたにやき)
徳島県鳴門市大麻町大谷で作られる炻器です。1780年に四国八十八カ所巡礼で訪れた納田文右衛門が轆轤(ろくろ)を用いた焼物を披露したことが始まりとされています。当初は染付磁器を焼いていましたが、高級な原材料を取り寄せていたことなどから経営が悪化しわずか3年で廃窯。1784年に藍職人の賀屋文五郎や信楽の陶工らの手によって再興します。一人が寝そべって足で轆轤(ろくろ)を回し、もう一人が成型する 寝轆轤 を用いた大甕などを生産していました。最盛期には十数軒の窯がありましたが、今は6つの窯が残っています。国の伝統的工芸品に指定されています。


香川県
岡本焼(おかもとやき)
香川県三豊市周辺の焼物。発祥は定かではないが、1300年頃に三豊市岡本地区に伝えられたとされています。釉薬を使用しない素朴な焼物が生産されています。
理平焼(りへいやき)
香川県高松市で焼かれる陶器。高松焼とも呼ばれます。高松藩主松平頼重が京都から野々村仁清の弟子の森島作兵衛を招いて焼かせたお庭焼きが始まり。移住の際、作兵衛が紀太理兵衛重利と改名したことにより理兵衛焼と呼ばれるようになりました。明治維新で御庭焼は廃窯となりましたが、十一代が、理兵衛を理平と改め民向けの理平焼として継続。現在は、十三代紀太理平(本名克美さん)の奥様、十四代紀太理平(本名洋子さん)が継いでおられます。淡い色合いの陶器に京風の蒔絵を施したものなどが人気の様です。
愛媛県
砥部焼(とべやき)
愛媛県伊予郡砥部町の焼物です。大洲藩藩主加藤泰候が安永4年(1775年)に磁器生産を命じて始まりました。砥部で採掘されていた「伊予砥(いよと)」という砥石を原料とします。白磁に呉須と呼ばれる青色の顔料を大胆に筆書きしたシンプルなデザインのものが多く、普段使いにも飽きのこないところが好きです。厚手で丈夫なところから投げても割れない「喧嘩器」と呼ばれたりもします。国の伝統的工芸品に指定されています。

高知県
尾戸焼(おどやき)
高知市の焼物です。1653年に藩主山内忠義の指示により大阪から陶工を招いて開窯したのがはじまります。淡い土色の上に青い呉須で絵付けしたものが特徴で、温かみのある焼物です。明治までは数軒の窯がありましたが、現在では谷製陶所と土井窯の2軒のみが残っています。土井窯はあいにく閉まっていましたが、谷製陶所の谷さんが土の作り方から焼き方まで丁寧に説明していただきました。

福岡県
上野焼(あがのやき)
福岡県田川郡の陶磁器です。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正が連れ帰った金尊楷を1602年に千利休の七哲の一人である豊前藩主細川忠興公が招き、豊前国で開窯したのがはじまりとされています。皿山(本窯)、窯の口窯、岩谷窯(唐人窯)の3つの窯が最も古く、上野古窯と呼ばれています。茶人にも好まれ、遠州七窯 のひとつにも選ばれています。現在では約20の窯があります。青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬が用いられますが、最近は写真の緑青流しがよく出ているようです。。国の伝統的工芸品に指定されています。


高取焼(たかとりやき)
福岡県の直方(のおがた)から東峰村を中心とする陶器です。朝鮮出兵の際に黒田長政公が朝鮮から連れ帰った陶工が直方の鷹取山麓の永満寺宅間で1602年(1600年?1606年?)に開窯したのが始まりとされています。長政から「高取」の姓を受け「高取八山重貞(たかとりはちざんしげさだ)」と名乗りました。二代八蔵貞明の時代に現在の東峰村に移りました。高取焼の窯元は福岡県の各地に点在していますが、東峰村の高取焼宗家は高取八山の直径の窯元で、現在は十三代高取八山が継がれており、息子の春慶さんもいずれは十四代を継がれるそうです。遠州七窯 の筆頭とも言われています。藁灰、木灰、長石、酸化鉄を原料として白、黄、黒、黒錆、薄黒、飴、道外どうけ、春慶、ふらし、の七色の色合いを醸し出す様は「七色薬(なないろぐすり)」と呼ばれ、重厚な趣ながら薄手で軽く手触りや口当たりがよく、お気に入りの2品です。


小石原焼(こいしわらやき)
福岡県朝倉郡東峰村の陶磁器です。1669年に高取焼の初代八山の孫八郎が小石原に移り開窯していたところに、1682年に福岡藩の藩主が伊万里から陶工を招き、高取焼とも交流しながら始まりました。高取焼が小堀遠州の好む「綺麗さび」と呼ばれるのに対し、小石原焼は日用品を中心に生産され「用の美」と言われています。轆轤(ろくろ)を回しながら鉋(かんな)や刷毛(はけ)を用いて、「飛び鉋(とびかんな)」、「刷毛目(はけめ)」などの幾何学的模様付けを行うものが特徴です。国の伝統的工芸品に指定されています。


佐賀県
唐津焼(からつやき)
佐賀県・長崎県北部の陶器。素朴な色柄と模様で親しみがあります。「一楽二萩三唐津」と呼ばれるほど茶器としての定評があります。昔は「東のせともの、西のからつもの」と呼ばれるくらい盛んでしたが、一時衰退。昭和に入り、12代中里太郎右衛門(人間国宝)による復興の努力などにより再び着目されるようになりました。絵の施された「絵唐津」、黒と白のコントラストが美しい「朝鮮唐津」、藁灰を混ぜることで斑模様の浮かび出る「斑唐津(まだらがらつ)」、朝鮮由来の幾何学的文様を描いた「三島唐津」、粉を引いたかのような「粉引唐津」など、いくつかの種類があります。国の伝統的工芸品に指定されています。

(椎ノ峯窯)

(中里太郎右衛門窯)
有田焼・伊万里焼(ありたやき・いまりやき)
佐賀県有田町を中心とする磁器。日本三大陶磁器 のひとつ。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に大陸から連れ帰った李参平が有田町の泉山で白磁に適した磁石を発見したことから、白磁の一大生産地となりました。盛んに生産したため、現在は山がひとつ無くなっているそうです。最初は青い文様のみでしたが、次第に赤、緑、黄、青、黒で色鮮やかな絵柄を描いたものが有名になってきました。特に、酒井田柿右衛門が始めた柿右衛門様式の磁器はヨーロッパにも輸出され、貴族に珍重されました。当時はまだヨーロッパでは磁器を焼く技術が無く、ドイツのマイセンなども伊万里焼を手本に磁器の製作を試みていたとのこと。有田焼の生産は主に有田町ですが、有田町に隣接する伊万里市の伊万里港から海外に輸出されたことから「伊万里焼」とも呼ばれます。江戸時代までに作成された伊万里焼の中で骨董的価値があるものを特に「古伊万里」と呼びます。国の伝統的工芸品に指定されています。

(アリタセラで購入)

(丸兄商店で購入)

(有田焼のカップ麺の蓋)
武雄焼(たけおやき)
有田町の西隣に位置する、佐賀県武雄市(たけおし)の陶磁器です。武雄市内に約90の窯元がそれぞれ独自の技法・趣向をこらした焼物を生産しており、有田焼とはまったく異なった趣の焼物を見ることができます。

黒牟田焼(くろむたやき)
佐賀県武雄市武内町で丸田家が受け継いでいる焼物です。伺ったときは丁度「火まつり」の最中で、集落の中で展示販売が行われていました。無骨ながらも力強さを感じる焼物が多くありました。2014年に先代の丸田宣親さんが亡くなられてからは、息子の丸田延親さんがあとを継いでおられます。窯のすこし手前では、世界一の広さを誇る「飛龍窯」を見学することもできます。

肥前吉田焼(ひぜんよしだやき)
佐賀県嬉野市の磁器。有田から南東に車で30分ほどの場所です。現在では波佐見焼に似た現代的な生活食器を中心に生産しています。安土桃山時代頃に始まり、江戸時代末期に一度下火に。明治に再興し、大正時代には朝鮮向けの輸出市場をほぼ独占する勢いでしたが、再度下火となり、現在は11の窯が残っています。時間の都合で訪問することができなかったので、画像 のリンク先を参照ください。
尾崎焼(おざきやき)
佐賀県神埼市の陶器。起源は1280年頃と古く、江戸時代には幕府への献上品にもなりましたが、焼成温度が低く脆いため現存しているものは少ないそうです。現在では日の隈窯のみが残っています。古い尾崎焼は黒と茶を基調とする文様無しのものが多いようですが、日の隈窯では和紙を草花の形に切り抜き、その上から絵の具をしみ込ませ、和紙を取り除いた後で線を書き加える「和紙染」の焼物が多く焼かれていました。他に、古くからある尾崎焼としては、「尾崎人形」という鳩や人形の焼物が伝統として残っています。

白石焼(しらいしやき)
佐賀県三養基郡(みやきぐん)みやき町の焼物。江戸時代末期には有田焼に匹敵する名産地として盛んでしたが、明治以降は衰退し、現在では瀧水窯、百十窯、佐藤窯、裕翠窯などが残っています。・・・と書いていたのですが、2021年11月に伺った時には、瀧水窯、百十窯はもう焼物を辞められているとのこと。佐藤窯の佐藤華祐さんに焼き方や技法などいろいろ教えていただきました。

弓野焼(ゆみのやき)
佐賀県藤津郡弓野で焼かれていた陶磁器。江戸時代にはじまりましたが、現在は廃絶しています。土色の混じる焼物に松の絵を描いたものが多く「弓野の松絵」と呼ばれていました。
長崎県
波佐見焼(はさみやき)
長崎県東彼杵郡波佐見町の陶磁器。江戸時代には日本全国に流通し、庶民が買うことができる磁器として広まりました。京都・大阪では「くらわんか碗」と呼ばれていました。酒や醤油を輸出するための「コンプラ瓶」も作られていました。1990年代には、日本の生活雑記の 1/4 から 1/3 程度のシェアを占めていたこともあるそうです。白磁をベースとしながら、現代的なデザインや色・形も多く、日用陶器として親しまれています。国の伝統的工芸品に指定されています。


三川内焼(みかわちやき)
長崎県佐世保市の陶磁器です。平戸焼とも呼ばれます。白磁に青の呉須で唐子(からこ)と呼ばれる子供の絵を描いたものが特徴で、7人のものは将軍家や朝廷、5人のものは大名家、3人のものは一般大衆向けと制限されていました。他にも透かし彫り、浮き彫り、菊花飾細工など、非常に技巧の高いものが生産されています。三川内美術館や隣接する陶芸の館は無料で見学することができ、いくつかの窯元の地図などの情報も入手することができます。国の伝統的工芸品に指定されています。

(平戸松山窯)

(平戸洸祥団右ヱ門窯)
熊本県
小代焼(しょうだいやき)
熊本県の北端にある荒尾市を中心とする陶器。「小岱焼」とも表記します。様々な色合いの釉薬を流しかけた、素朴で力強い作品が多いです。ふもと窯、しろ平窯、中平窯(なかでら)、ちひろ窯、野田窯、たけみや窯、末安窯(すえやす)、太郎窯、瑞穂窯、岱平窯(たいへい)、一先窯(いっさき)窯、松橋窯(まつばせ)窯の12の窯がありましたが、太郎窯は現在廃窯されているそうです。いくつかの窯元を回り、いろいろな話を聞かせていただきました。一先窯では初めて轆轤(ろくろ)を回している現場を拝見させていただきました。時間があれば11窯元すべて回ってみたかったです。国の伝統的工芸品に指定されています。





天草陶磁器(あまくさとうじき)
熊本県天草市の陶磁器の総称。延宝4年(1676年)年頃に内田皿山焼、宝暦12年(1762年)に高浜焼、明和2年(1765年)に水の平焼、弘化2年(1845年)に丸尾焼が開窯するなど、盛んに焼き物が作成されました。元々は個別の名称でしたが、国の伝統的工芸品に指定する際にこれらを総称して「天草陶磁器」と名づけられました。天草陶石を用いた透明感のある磁器、釉薬の二重掛けの技法を用いた海鼠釉・黒釉など、個性的な陶器が特徴。現在でも27の窯元や作家さん達が活動しています。
高田焼(こうだやき)
熊本県八代市の陶器。八代焼とも呼ばれます。寛永9年(1632年)、豊前国上野(現:福岡県)で上野焼を始めた朝鮮の陶工尊楷(和名:上野喜蔵)が、細川忠興・細川忠利の熊本転封に伴い、長男忠兵衛、三男藤四郎と共に肥後国八代郡高田郷に移転し、細川御用焼として焼き始めたのが始まり。上野焼の技法を継承していましたが、成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、白土を埋め、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけた白土象嵌と呼ばれる技法を完成させました。一見青磁のように見えますが陶器です。現在では上野窯、竜元窯、伝七窯の3窯が残っています。
大分県
小鹿田焼(おんたやき)
大分県日田市の陶器。1705年に日田郡大鶴村の黒木十兵衛が小石原の柳瀬三右衛門を招いて開窯したのがはじまりとされています。現在も三右衛門直系子孫の窯が10窯(現在は9窯)ほどあります。飛び鉋(とびかんな)、刷毛目(はけめ)など小石原焼の技法がみられる他、討ち掛け、流し掛け、指描き、櫛描きなどの技法が用いられます。小石原から小鹿田までは車で30分程度ですが、離合できない山道が続くので運転に自信の無い場合は日田市街経由で行った方がよいかもしれません。対向車が来たら最後...と泣きそうになりながら回ってきました。小鹿田焼陶芸館で地図をもらい、徒歩で9窯を回るのがおススメです。ししおどしの原理で水の力で陶土を砕く唐臼(からうす)も現行で稼働しているのは九州でここだけだそうです。


宮崎県
小松原焼(こまつばらやき)
宮崎県宮崎市の焼物。万延元年(1860年)に都城城主島津久本が鹿児島の苗代川から朴家を招き、島津家御庭焼として小松原(現:宮崎県都城市)で開窯。第二次世界大戦中に一時途絶えましたが、昭和46年(1971年)に宮崎市で復興。苗代川から引き継ぐ「蛇蠍(だかつ)」や「鮫肌」「鈍甲肌」などが特徴。十四代朴平意(博山)氏が亡くなった後、弟の十五代朴平意(丹山)氏が継いでおられますが、後継者に悩まれているようです。
日向焼(ひゅうがやき)
宮崎県日向市の焼物。宮崎県伝統工芸品に選ばれています。
鹿児島県
薩摩焼(さつまやき)
鹿児島の陶磁器。「白薩摩(白もん)」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の陶器が多いですが、「黒薩摩(黒もん)」と呼ばれる大衆向けの雑器もあります。国の伝統的工芸品に指定されています。
沖縄県
壺屋焼・やちむん(つぼややき・やちむん)
沖縄県の陶磁器。那覇市の国際通りに近い壺屋やちむん通りに壺屋焼の店が何軒も並んでいます。「焼物」のことを沖縄の言葉で「やちむん」と読むことから、沖縄の陶磁器自体を「やちむん」と呼ぶことが多いようです。デザインはやはり、力強いものが多いですね。沖縄らしい鮮やかな色使いと文様がきれいです。国の伝統的工芸品に指定されています。


欄外
広島酒祭りの猪口
灘や伏見に比べてそれほど有名ではないのですが、日本三大酒処は「灘(兵庫)」、「伏見(京都)」、「西条(広島)」と言われています。この西条で毎年10月に2日間に渡って20万人が参加する「酒祭り」が開催されます。ここで配られるお猪口が、手になじみが妙によく、実はお気に入りの一品だったりします。
