とほほの小久慈焼入門
目次
小久慈焼(こくじやき)とは
- 岩手県久慈市で焼かれる陶器です。[1]
小久慈焼の歴史
- 文化10年(1813年)に相馬の陶工嘉蔵が天田内甚六の助けを得て八戸藩に開窯の願いを出し三日町に築窯したのが始まり。[2] [3]
- その後、甚六の子、熊谷甚右衛門が嘉蔵に師事し陶器を焼き、その技法は熊谷家で代々引き継がれてきました。[2]
- 当時は「久慈焼」「天田内焼」「一の谷焼」「九戸焼」とも呼ばれていました。[3]
- 甚右衛門以降は、二代(栄次郎)、三代(甚六)、四代(儀八郎)、五代(嘉太郎)、六代(竜太郎)と続きます。[4]
- 竜太郎は龍太郎と記されることも多いようです。[6]
- 天田内家が熊谷姓に改姓したのは四代からという資料もあります。[5]
- 天田内(あまたない)は苗字ではなく甚六の屋号という資料もあります。[3]
- 小久慈焼の初代は甚右衛門ではなく甚六という資料もあります。[3]
- 嘉蔵の苗字も熊谷のようです。[3]
- まとめると、下記のような感じでしょうか。
- 相馬の熊谷嘉蔵が天田内の甚六と共に築窯し、甚六の息子甚右衛門も熊谷嘉蔵に師事して加わった。
- 初代が甚六なのか甚右衛門なのかは微妙。
- 甚右衛門以降は二代(栄次郎)、三代(甚六)、四代(儀八郎)、五代(嘉太郎)、六代(竜太郎)と続いた。
- 四代目以降は熊谷姓を名乗るようになった。
小久慈焼の継承
- 六代龍太郎の頃は焼物だけでは生活できず、長男は出稼ぎ、長女は嫁入りし、窯を焼くのも1~2年に一度という状態となりました。[5]
- 小久慈焼を存続させようと、長内町は昭和28年に後継者育成事業を始め、当時弱冠15歳の下嶽毅さんに白羽の矢をたてました。
- 町ではなく市の後継者育成事業という説明もあります。[7]
- 4年間の研修と平清水での1年間の修行の後、六代龍太郎の弟子となり、小久慈焼の再建に努めました。
- 六代龍太郎が再建を諦めるなどの困難もありましたが、22歳で下嶽岳芳(しもだけがくほう)と名乗って七代目を襲名。
- 昭和最盛期には40人の従業員を擁し、現在は人数は減ったものの事業は継続。
- NHK連続テレビ小説「あまちゃん」やJRのレストラン列車「東北エモーション」でも小久慈焼が使用されています。
- 現在は七代岳芳の息子、下嶽智美(しもだけさとみ)さんが八代目を継がれています。[7] [8]
小久慈焼の特徴
- 地元の土を使用。[9]
- もみ殻やわらの灰を原料とする白い釉薬と、砂鉄を原料とする深い飴色の釉薬が基本。[9]
- 明治時代には民芸運動の柳宗悦にも評価されていました。[1]
- 現在では暮らしに根差したデザインの片口やすり鉢が代表的アイテム。[9]
小久慈焼訪問
2025年4月に小久慈焼産地を訪問してみました。
小久慈焼陶芸苑
窯元に行ってみました。が、今日は陶芸教室で出かけていて不在とのこと。不定休なので来訪の際には連絡くださいとのこと。




道の駅 くじ
道の駅にも小久慈焼の展示がありました。観光案内所で小久慈焼きを購入できそうな店を教えてもらいました。


雑貨ショップまたたび
1軒目のまたたびは閉まっていました。小久慈焼が少しだけ飾られていました。


大平園(おおひらえん)
道の駅で教えてもらった大平園に数多くの小久慈焼が販売されていました。七代目 下嶽岳芳さんのぐい吞みを購入。



呉服えんどう
大平園の隣にある呉服屋にも何故か小久慈焼が。何故かNHK連続テレビ小説「あまちゃん」グッズも販売してるみたい。話を聞いて見ると「あまちゃん」のドラマで使われた法被(はっぴ)を提供した呉服屋だそうです。今でもあまちゃん(のん)が久慈に来るたびに全国のあまちゃんファンに呼びかけ百数十人規模の宴会を仕切られているとか。あまちゃんと映っている写真、無茶苦茶うれしそう(笑)





リンク
- [1] 小久慈焼(こくじやき)(Wikipedia)
- [2} いわての文化情報大辞典 小久慈焼
- [3] 久慈市内遺跡詳細分布調査報告書
- [4] 熊谷甚右衛門(コトバンク)
- [5] ジモト学のススメ 小久慈焼ってなに?
- [6] 幻の名茶碗 小久慈焼 唯一の窯元 六代目 熊谷龍太郎(竜太郎)茶碗
- [7] IWATE STAR BRAND ロングインタビュー:下嶽智美さん「小久慈焼の伝統を守るために、未来のために」
- [8] 久慈に生まれ、久慈に寄り添う
- [9] 東北生まれの「小久慈焼」が、ふだん使いにちょうどいいワケ
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初版:2025年5月4日、最終更新:2025年5月4日
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